加賀藩初代藩主 前田利家公と妻 まつ の武勇伝
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こんにちは、金沢座です。

前田利家が活躍したのは、戦国時代〜安土桃山時代で、戦国大名といわれたひとりです。2002年に放送された大河ドラマ「利家とまつ」は話題を集め、人気作品となりました。大河でも取り上げられたほどの人物、利家はどのような人生を過ごしてきたのでしょうか。

前田利家の生き方、人生をテーマにお話していきたいと思います。

前田利家という人物

今よりずっと昔、利家が活躍していたころの日本男性の平均身長は、160cm未満といわれていました。これは現在の中学三年生男子の平均にも満たない数字です。ところが、利家の身長は180cm以上とされており、当時にしてはかなりの大男だったのです。

今と比べれば質素な食事をしていたと考えられる当時の食生活で、高身長の利家は目立つ存在であったでしょう。

利家の性格は派手・短気・喧嘩っ早い?

前田利家といえば、男気があり忠誠心が強く、人望が厚いというイメージがあります。しかしそのイメージとは裏腹に、若い頃の利家は喧嘩っ早く短気で、その時代では「かぶき者」といわれる格好を好んでいたのだとか。

戦国時代の末期から流行し始めたもので、和歌を愛し、茶道をたしなむ数寄(すき)者より美意識が高い人のことをかぶき者といいます。堅実なイメージのある利家ですが、意外と現代でいう“おしゃれ”な人だったのかもしれませんね。

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利家が人生をかけて忠誠を誓った男とは

利家の生き方や人生を語るうえで外せない人物といえば、織田信長です。

利家が残した格言に「武門とは信義の番兵であり、人の生涯はこころに富をそなえるためにある」というものがあります。武門とは信義の番兵であるというのは、武家に生まれしものは忠義の約束を守り、番兵として務めるという意味があります。この格言通り、生涯の忠誠を誓ったのが織田信長だったのです。

織田信長との出会い

利家の生誕年は諸説ありますが、天文6年生まれであったとすれば、14歳頃に信長の小姓として仕えています。武門を貫くその忠誠心は、仕えた信長に対しておしみなく注がれていくことになります。

14歳というと、まだまだ少年です。そんな少年とされる年齢で高貴な方のもとへ仕える者を小姓といいます。ただ、その当時の織田信長は18歳で、現在では大人といえる年齢ではありません。今の時代とは、何もかもが異なっていたということが分かりますね。

利家が貫き続けた忠誠心エピソード

利家は長槍の名手として知られ、その腕を見込んで信長からの支持も厚い人物でした。中学二年生頃の少年が、敵陣からはなたれる弓を恐れず走り抜け、突き倒すなんて想像できるでしょうか。戦ひとつひとつに、いかに心がこもっていたのか、いかに尽くす戦いをしていたのか想像することができます。

ただ、永禄2年、信長との間に確執が生じる事件が起こります。それは、こうがい斬りといわれ、その事件以降3年ほど利家は信長のもとへ仕えることを許されませんでした。その理由というのも、利家が生涯愛した伴侶、まつから貰った笄(こうがい)が行方知れずになり、それを一生懸命になって探し大切にするさまが“女々しい”と罵り、バカにしたのが信長の異母兄弟だったのです。

その言いように我慢できなかった利家は、その者を斬りつけてしまったのでした。いくら異母とはいえど、兄弟を斬られたことに信長が怒るのは当たり前で、利家を追放するという処罰を与えたのです。

しかし、利家はそれでも信長を慕い、敬い、使える武門の心を絶やすことはなく、三年後には見事信長のもとへ帰参したのでした。

加賀藩初代藩主 前田利家公と妻 まつ の武勇伝

 

妻「まつ」の武勇伝がすごい

利家が愛してやまない「まつ」という妻は、たくさんの武勇伝をのこしています。まつの魅力を知ることで、利家が愛した理由がみえてくるのです。

まつの戒名は芳春院といいます。利家の正室として知られており、大河ドラマ「利家とまつ」でも、その人格や妻としての夫を支える在り方に感銘を受けた方も多く、愛された歴史人物といえるでしょう。

前田家のために過ごした人質としての14年間

徳川家康から嫌疑をかけられ、前田家の窮地となった時、まつは自らの身を差し出すことでその流れをなだめたといわれています。今とは時代が違うとはいえ、愛した夫の家を守るためにそこまで尽力できるその漢気に、尊敬する気持ちをもたずにはいられません。

豊臣秀吉との仲を保ったのはまつの力

まつは秀吉の妻であるねねや、母親とも仲が良かったそうで、秀吉と利家との間に起こるいざこざの度に支え、解決に導いているのです。まつ自身がねねの元を訪ねたり、秀吉に直接話をすることもあったのだとか。

秀吉も利家に対しては遺言書でもしるしているように、「律儀な者」とし、武士としてだけでなく、その人間性を認めていたとみられます。秀吉が五大老の筆頭に利家を指名したのも、これまでの関係性やまつの力があってのことだったのかもしれませんね。

秀吉の没後八か月で利家もその生涯を遂げることになります。その後の世は徳川家康が活躍し、天下人として知られるようになります。

利家の死は病死とされていますが、その生涯、悔いなく遂げられたのではないかと思います。仕える方に対する忠誠心、妻を愛し抜くこころは、現代人からしても尊敬に値しますね。