石川県を代表するプロ野球選手!松井秀喜さんの凄さとは

こんにちは、金沢座です。

巨人を代表する選手といえば、かつて「ゴジラ」の愛称で親しまれた松井秀喜選手ではないでしょうか。松井選手は一体どんな人生を歩んだのか、野球界に残した軌跡をたどってみたいと思います。

松井秀喜が野球を始めたきっかけとは

もともと体が大きく、3歳当時で小学2年生に間違われるほどだったそうです。小学1年生から野球を始めるものの、幼さゆえに監督の厳しさや指示される内容がうまく理解できず、一度は野球から離れることになります。

しかし、そんな松井選手を再び野球に引き戻したのが彼のお兄さんでした。弟らしく、お兄さんの後を追いかけるように小学5年生で野球チームに入り、左打ちになったのもこの頃です。

根っからのスポーツ少年

実は、松井選手の幼少期は、野球よりも柔道で注目されていたのです。もし柔道を続けていたら、その身体能力からオリンピック選手になっていたかもしれませんね。

野球に柔道、わんぱく相撲大会にも出場するなど、本当に体を動かすスポーツが大好きな少年だったのでしょう。そんな松井選手が本格的に野球に取り組むようになったのは、中学進学がきっかけでした。

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松井秀喜が中学・高校で残した伝説

中学時代〜軟球が砕け散る打球を放つ〜

当時の体格は身長170センチ、体重は90キロを超え、まさに「ゴジラ」の名にふさわしい迫力でした。そんな松井選手が中学時代に残した伝説の中で、その打球の強さを感じるものがあります。

松井選手が中学3年生のころ、飛距離がどんどん伸びていく中で、その力強い打球に軟球とはいえボールの方が耐え切れなくなっていたのです。軟球が砕け散るなんて想像もできません。いかに彼の放つ打球がすさまじい破壊力を持っていたのかを実感することができますね。

とはいえ、ボールもタダではありません。松井選手がボールをダメにする度新調されたボール代は、1年で20万円もの金額になったのだとか。

高校時代〜五打席連続で敬遠事件〜

高校時代の松井選手は、将来野球選手になりたい!と強く思っていたわけではなかったようです。せめて大学までは続けたい、そんな想いを抱きながらの高校進学でした。しかし、彼の伝説は高校時代においても語り継がれるものとなります。

1年生のころから“怪物”の片りんは見られていたものの、2年生になるとプロ入りしていく先輩たちから「自分の打つホームランと松井の打つホームランでは比べ物にならない」と恐れられるほどになっていきます。そんな松井選手が高校3年生になり、あの事件が起こったのです。

その名も、「五打席連続敬遠事件」です。甲子園で2回戦に進んだ星稜高校でしたが、明徳に敗れる結果となり、松井選手の高校球児人生は幕を閉じます。しかしこの試合にて社会問題とまでいわれたのが、松井選手に対しての連続敬遠でした。なぜ敬遠という判断に至ったのか、当時の明徳義塾高校の監督によると、当時の松井選手はすでに高校生の技量を超え、プロといっても良いほどの選手だったと語っています。

石川県を代表するプロ野球選手!松井秀喜さんの凄さとは
画像出典:http://meikyu-kai.org/member/batter/shigeo_nagashima.html

松井秀喜と長嶋監督の運命

松井秀喜という野球選手が、老若男女、誰もが知る人物へとなったのは、巨人への入団後の素晴らしい活躍があったからではないでしょうか。しかしその巨人入りの裏には、隠された数々の運命が存在してました。

松井はもともと阪神ファン?

松井選手は、もともと阪神ファンであったといわれています。そのため、もちろん希望していたのは憧れの阪神への入団でした。その他の球団へ入ることは全く頭になく、阪神に入団することを強く熱望していたのだとか。

そんな松井選手を突き動かしたのが、あの長嶋茂雄監督だったのです。長嶋監督は記者へのアピールはもちろん、直接松井選手のもとへ電話をかけてまで“巨人へ来てほしい”という熱い思いを語ったのだとか。このことがなければ、巨人のゴジラ松井は存在していなかったかのかもしれませんね。

長嶋監督との運命とは?

そんな長嶋監督と松井選手は、何か強いもので引きつけ合っていたのではないかと感じるエピソードがあります。

長嶋引退の1974年、松井秀喜誕生

長嶋監督はもともと巨人の選手として活躍していました。ミスターという愛称で親しまれ、その独特の話し方でも愛された選手でしたね。そんな長嶋選手が引退を迎える年に、松井秀喜は石川県で誕生していたのです。

もちろん、松井選手の両親と長嶋監督とは、まったく接点もなく関係もありません。ただ、なにか運命のようなものを感じずにはいられませんよね。

メジャーで終えた松井秀喜の野球人生

メジャーへの移籍発表は、日本中の野球ファンにとって衝撃的でした。しかし、松井選手にとっては、彼の夢であったメジャーでの活躍や、ヤンキースへの入団が叶えられた奇跡的な瞬間だったでしょう。

日本ではあれほどまでに活躍し、恐れられていた大柄な松井も、メジャーでは少し小柄に見えるほどでした。やはり外国人選手の体格やパワーには、圧倒されるものがあります。それでも、日本人では初となるサヨナラ本塁打を放つなど活躍をみせたものの、実質16本というゴジラらしからぬ成績で1年を終えました。

しかし、高校時代の敬遠事件のときもそうですが、ここで発揮されるのが松井選手の精神力の強さといえます。そこでくじけるわけでもなく、メジャーで本領を発揮するために体の強化につとめ、世界で認められる打者となっていったのです。

引退後に語った野球人生の思い出

松井秀喜さんが野球人生に幕をおろしたのは2012年のことでした。引退後、自分の人生を振り返って思い出すのは「長嶋監督との素振り特訓」だったと話しています。松井選手がもつ才能、能力をすべて引き出したのはやはり長嶋監督だったのかもしれませんね。

巨人時代、グッズのロイヤリティーで生活し、一度も年俸に手をつけることがなかったという松井秀喜さん。それだけファンに愛されていたという証拠でしょう。彼のスポーツにささげたその人生の軌跡をたどると、活力と希望をもらえたような気がしますね。

追伸

石川県に来られた際には、松井秀喜ベースボールミュージアムに行かれてみるのもおもしろいかと思います。